愛しの荒野/S12/黒コンテ、アクリル絵具
「愛しの荒野」展示風景1F
「愛しの荒野」展示風景1F
マグダレーナ/S80/黒コンテ、アクリル絵具
イスカリオテ/S80/黒コンテ、アクリル絵具
砂嵐/F15/黒コンテ、アクリル絵具
「愛しの荒野」展示風景1F
舞うヘロデヤの娘 青と黄/F15/黒コンテ、アクリル絵具
洞窟/F15/黒コンテ、アクリル絵具
「愛しの荒野」展示風景1F
マリア!/F6/黒コンテ、アクリル絵具
「愛しの荒野」展示風景 階段
「愛しの荒野」展示風景2F
「愛しの荒野」展示風景2F
「愛しの荒野」展示風景2F
「愛しの荒野」展示風景2F
原罪を嗤え(エバ)/襖/黒コンテ、アクリル絵具
原罪を嗤え(アダム)/襖/黒コンテ、アクリル絵具
原罪を嗤えーアダムとエバー/襖/黒コンテ、アクリル絵具
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愛しの荒野
ある時代のある場所にある民がいました。その時代は煮えたぎるマグマのように蠢いていました。噴き出したマグマはやがて固まり、固まったマグマは人々に打ち砕かれ、また新たなマグマによって大地をドロドロに溶かした。そんなことが繰り返され赤く灼かれた大地は尚も人に厳しかった。わずかに残された肥沃な土地も乾いたごつごつした谷や岩山が人の入り込むのを拒むように覆っていたのです。それなのに、人は約束された地を必死で守り戦いぬいてへばりつくように生きてきました。巨大な征服者が何度も現れては消え、その度に人々は土地を追われちりじりになり囚われ殺された。しかし地は血を放そうとはしませんでした。どれほど苛烈な契約を背負わされていても、人は己の肉体が滅びきることも厭うことなく、いっそう厳しく険しい土地へと分け進みました。決して見ることのない恋焦がれし人物がそこにいるかのように人は荒野を目指したのです。
忘れられない話し
私がまだ大学で彫刻を学んでいた頃、イタリアを拠点に活躍されている彫刻家のAさんをお招きした講義を聴く機会があった。Aさんはイタリア現代彫刻の第一人者マリノ・マリーニの工房でアシスタントを務めながら自身の彫刻の研究をしていた経歴がある。
1950年代、日本でイタリアの現代彫刻家が紹介される展覧会が盛んになり大変な反響を呼んでいた。アカデミズムを逸脱したその見慣れぬ作品群はとんでもないカウンターパンチだったようだ。マリーニを始め、マンズー、マルティーニ、ファッチーニ、グレコ、日本の若き彫刻家達の目には綺羅星のように映ったことだろう。
イタリア彫刻は強いのだ。フォルムが強く、無骨とも言える大胆な構図と荒削りなマチエール、それでいながら優美さも兼ね備えていて、それまでのセオリーになかったポージングやたなびく髪など、不動とされた彫刻の中に流動性をもたらした。ことに、マリーニの彫刻は原始的な生命力と現代社会をダイナミックに結びつけている。
触発されイタリアに渡る彫刻家が続出したのは自然な流れだったろう。Aさんも大学を卒業後、イタリアに渡りマリーニの工房で修行し特出した才能を開花させ、内外問わず高い評価を受けていた。
その時の講義でもイタリア修業時代のお話しを楽しく聞かせていただいて、中でもマリーニの助手をしていた時のエピソードが今でも忘れられない。
当時、Aさんはマリーニに抜擢されて作品制作の助手を一手に任されていた。粘土で塑像した作品はまず石膏取りを行う。粘土の表面に水で溶いた石膏を吹きかけ型取りし中身を掻き出した後、そこへ再び石膏を流し込み、固まったら外型をノミで割り出すという行程を経て、塑像をコピーした石膏の原型ができ上がる。
いつものように作業を進めていたAさんが全身と顔をあらかた割り出して残る頭部に取り掛かろうとしたその時、突然マリーニが大声をかけて作業を中断させた。頭部に外型がまるまる残った状態の作品をしばらく見つめ、これでいい、これが美だ、といって完成させたと言う。普通では有り得ない状況なのだが、その話を聞いて以来、ずっと頭の片隅にこびりついている。
これについて、Aさんは作家には決断力が必要だとおっしゃっていたが、私にはまた違った印象が残った。しかし、それが何なのかはわからないままだった。そして、最近、絵を描いていてこの話しを振り返り思うことは、これで良い、と言う瞬間は突然訪れる。それは作家の判断を超えた何かだ。その瞬間に作品はもう作家の手を離れてしまっている。作品がいきなり自分の手から奪い去られている。それは、数えきれないほど手を動かしていて初めて訪れるのだ。マリーニの、無作為に満ちた突拍子のなさはそう言った瞬間の連続に裏打ちされているのではないか。
Aさんは、マリーニの元で働いた後、しばらくはマリーニの影響から逃れられず苦悩の日々が続いたと言う。葛藤の末、それを乗り越えるように代表作となるシリーズを次々と生み出していった。それは、幾何学的な造形が力強く組合わさった抽象彫刻で、特徴的なのは洗練された表面に銃弾が撃ち込まれたような穴がいくつも空いていることだ。出し抜けに空けられた数々の穴は作家の意図を超えた何かが突き抜けたかのように生々しく視る者に迫ってくる。日常とは、いきなり引き裂かれるものなのだと言わぬばかりに。
私が絵に向う時、絵になることには向っていない。絵にするのではなく、絵の尻尾を掴んだ瞬間が絵になればと思っている。そんな時、彫刻をやっていた頃の自分をよく思い出す。彫刻をする時の自分の手と心の動きを。彫刻は暗闇に手を突っ込んで心の目で形を掴み取って引きずり出すようなものなのだ。
2023春、飯沢康輔